高須光聖と松本人志
私は高須ちゃんが好きだ。
松っちゃんももちろん好きだ。でもどこか別のところで、高須ちゃんがとても好きだ。
ラジオ「放送室」ほど面白いラジオを私は知らない。
高須ちゃんと松っちゃんの絡みで面白いのは、ギリギリの信頼関係だと思う。
一方で少年時代からの友人として心を許して、一方で仕事仲間としていつ首をかかれるかわからないような、どっちが落ちても弱肉強食というようなヒリヒリを湛えている。
美しいと思う。
ブロマンスを愛でる心理に似ているかもしれない。純粋な、男性同士の友情?への憧れかもしれない。
少年同士の友情よりも、少年から青年・大人へと移り行く中で、愛着にも似た友情と、同じ男としての弱肉強食な社会的関係のアンビバレンスを孕んでいる関係の方が美しい。
複雑で、ゆるぎなく、ある意味で脆い。
芸人は、ブロマンスだ。
漫才の相方とは、一心同体だ。死ぬときは一緒だ。
一生を相手に捧げる覚悟がなくては売れない。ある意味、プロポーズより重い。多くの漫才師は、中高時代や10代後半〜20代前半で相方と出会い、人生の伴侶であるお嫁さんよりも長い時間を共に過ごす。
夢を追うのだ。二人で一つの夢を。二人でなくてはならない夢を。芸人以外に、こんなにも「バディ」である関係を私は知らない。
高須ちゃんは「放送室」で、松っちゃんの相方を立派に果たしている。「放送室」という漫才コンビが、ラジオ内で結成されている。ダラダラしゃべくり漫才。
西川貴教や千原ジュニアや、どんなに松っちゃんと息が合うと言われたり、公私ともに肉薄した人間も、浜田雅功という相方には遠く及ばない。しかし放送作家高須光聖は、コンビ「放送室」の相方になってしまうのだ。そのコンビ性は「ダウンタウン」とは趣を異にするが、別種として立派に成立してしまう。
しかし、松本人志が芸人として高須光聖を相方に選んだかといえばそれはないだろう。もしかしたらピースな漫才コンビになったかもしれないが、二人は売れなかっただろう。ダウンタウンの覇権には、浜田雅功の帝王学が必要不可欠であった。
高須ちゃんは、裏方なのだ。天才漫才師ダウンタウンの同級生の、天才放送作家高須光聖なのだ。
潮小学校恐るべし、である。